9/12 被災地の1日
もう昨日の事ですが、ポチポチ書きます。
時間とか多少あやふやなので、その辺はご容赦。
9日の夜に警戒情報やらなんやらが出てましたが、その時は結構降るね~などとヨメと雑談しつつ就寝。
寝ている間に常総市若宮戸に避難指示が出ていましたが、当然熟睡しているので知りませんでした。
10日の朝にいつも通り5時ごろに猫に起こされると防災放送がわーわー流れてます。
川の増水や避難について放送しているのですが、スピーカーが遠いうえに時間差で聞こえてくる反響音が重なり、とても聞きにくんですね。
ただ、鬼怒川やばいよ~ということを言っているのは理解できました。
この時点ではまだ大した危機感もなく、今まで鬼怒川の氾濫なんて聞いたことが無いのも相まってまさかほんとに氾濫なんてしないでしょ・・・と思っていました。
いつも通り猫のトイレを掃除し、ご飯を食べながらテレビを見ていると、若宮戸地区で川の水が越水しましたとの報道。
決壊が現実味を帯びてきます。
話は逸れますが、常総市は10年前に「石下町」と「水海道市」が合併してできた市でして、若宮戸は石下町ができる更に前の玉村という村の一番西側(鬼怒川沿い)にあります。
ちなみに玉村地区は旧石下町の一番北側です。
玉村は西の若宮戸(わかみやど)から原宿(はらじゅく)、小保川(おぼかわ)と東西に延びています。
ちなみに私の実家はこの玉地区の一番東にある小保川の最東端にあります。
小保川自体はさらに東に続きますが田んぼしかありません。
実家の場所が上記のようなところなので、まさか大丈夫だろうとこの時は考えてました。
しかし、同じ玉地区ということで小学校~中学校の同級生が若宮戸にもたくさん住んでいましたので当然心配ですし気にはなりました。
こんな状況ではありましたが、とりあえず仕事に行こうといつもより少し早い8時15分くらいに家を出て、いつもの道を行くとすでに雨で冠水していて通れず、いつもと違う街中を通っていきました。
石下地区の北側にかかっている橋を渡るときに川を見ると、この辺ももうやばくね?というくらい増水していました。
(8時20分撮影)
こんな時でしたが、土手沿いに住む(?)男の子がサッカーボールで遊んでいました。
親は何してるんでしょう?
ちなみにここは土手の上を走る道路で、左側にはもう家が並んでいます。
つくばの職場までは思いのほか空いていて、いつもと変わらない時間に職場に到着。
その日は請け負っている工事の予定が入っていましたが、職人さんの家(栃木県鹿沼市)も雨で道路が冠水して車を出せる状態になくお客さんに事情を話して延期してもらいました。
この時点で私の自宅(鬼怒川の西側)手前の地区にも避難勧告が出たので、上司に相談し今日1日石下にある支店で勤務して何かあったらいつでも帰れるようにさせてもらいました。
石下の店に行く前に鬼怒川の状況を見ようと思い、土手まで行ってみました。
若宮戸方面を見ると土手の上を走る道が通行止めになっておらず、越水した方面に行けるようになっています。
越水した若宮戸には土手が無く、道もそこまで続いていませんので行けるのはかなり手前までなんですがとりあえず行ってみました。
(10時30分頃撮影)
これは若宮戸よりだいぶ南側の地区ですが、若宮戸よりまわってきた水ですでに冠水していました。
この時にこのまま橋を渡って自宅に帰ったほうがいいかな?とふと頭をよぎりましたが、仕事中ということもありこのまま街中に戻って店に行くことにしました。
橋のところに戻り、石下駅方面(東)に行きましたが駅前の道がすでに通行止めになっていました。
仕方なく南に曲がり、少し行ったところを東に行き通りに出たところで再度駅方面へ。
銀行閉まってます。
ディスペンサーは動いていましたが、中のシャッターも閉まっていましたので窓口はやっていませんでした。
反対側です。(進行方向の左側)
すでに冠水していました。
そしてさらに駅方面へ行くと、やはり通行止め。
引き返して十字路を東に向かいます。
線路を渡って少し行くとまた冠水していましたが、先行する車が数台そのまま進んでいたので、私もそのまま走っていきました。
予想を超える水嵩でいつ止まるかとひやひやしましたが、なんとか役場の前まで進み冠水した道路を抜けました。
そのままR294へ抜けようとすると、すでに通行止めです。
仕方がないので、役場の反対側の保健センターの駐車場を抜けて石下小学校の裏に行きそこから再度R294方面へ向かいます。
R294に出ると・・・・左にしか曲がれない。orz
片道2車線なのですが、中央分離帯があり右折できません。
幸い歩道が広く、私の軽自動車であれば抜けられます。
歩道を走って交差点まで行けば店はすぐそこです。
交差点にはパトカーが止まっていましたが、左に折れても道路が冠水していて通行できないので捕まるの覚悟で歩道を行き東京インテリアの駐車場に入りました。
(11時頃撮影)ここも後に冠水することになります。
なんとか店に入りましたが、店の周りの道が冠水しつつあることからすでに閉店の判断をしていました。
石下地区に避難指示が出ていたこともあり、閉店の業務を手伝った後自宅に帰ることにしました。
しかし、閉店業務を終えて店を出るとすでに駐車場全域が水没していて車が出せない状態。
しばらく思案に暮れていましたが、一度店の中に戻ろうということになり店の中に入るとすでに水が浸入していました。
店を出てから再入するまで20分程度でしたが、すでに写真の深さ程度水没していました。
この間も水は少しづつ嵩を増していましたが、この付近ではこの時間帯が深さのピークでした。
いずれにしてもここにずっと居られませんし、かといって車が出せない以上家に帰ることも出来ません。(後から考えると三坂決壊前のこの時なら歩いて帰れたかも・・・とは思います。)
店の責任者と相談した結果、すぐ裏の石下小学校が避難場所だと思うからそこまで行こうということになり、水没した道を膝上まで水につかりながら移動しました。
この時で2時少し前だと思います。
後から知りましたが、この時はすでに三坂地区で鬼怒川が決壊していました。
歩いてみると水の流れが思いのほか早く、しかも流れに逆らって歩くため結構疲れました。
行ってみると石下小学校が避難場所ではなく、その先のお城であることがわかり更に歩きます。
最終的には股のすぐ下まで水につかりましたが、なんとかお城に到着しました。
(14時頃撮影)お城の手前の体育館からの写真です。
お城の中に入るとラジオ放送が流れていて、この時に三坂で決壊したことを知りもう今日はここでお泊りだな~と思いました。
お城から撮影。
白いフェンスから手前は道路です。
完全に水没していて、流れも速いです。
お城7階の展望室から撮影。石下駅方面(城から北西)
城から北東。
太陽光パネルが乗っているのが常総市役所石下庁舎。
緑の屋根が保健センターです。下に白い車が水没してますが、私が抜けてきたのがこの駐車場です。
西側です。
私が来たときはまだ水が来ていませんでした。
北側です。
北西です。
三坂地区はこの方面です。
多くのヘリが飛んでいました。
ここにいる間家族と連絡を取り合っていたのですが、その時に実家がやばいということを知ります。
床下浸水しており、あと10cm程度で床上になるとのことでした。
そして母と同居の兄も家に帰れず、義姉も水海道地区で働いているため当然帰れず。
すでに働いている子供たちも帰れず・・・ということで、家には母が一人でいるとのことでした。
その後兄は水海道に向かい義姉と合流後、つくば市にある娘夫婦の家に避難。(この頃はまだ水海道地区は冠水していない)
母のことは当然心配でしたが、最悪2階に避難できるのと家が流される心配は無いのでそれをよりどころに頑張ってもらうしかありません。
停電しているため、携帯電話の充電も出来ずバッテリーの事を考え連絡も最低限にします。
ただし、東京に住んでいる弟と、つくば市に避難している兄と、避難所にいる私でLINEで連絡を取り合いながら情報を交換しつつ、一人だけがたまに母に連絡をして励ますようにしました。
私の自宅はというと、鬼怒川の西側ということと比較的距離もあることから被害は全くないということと、大学生になる息子が一緒にいるということもありとりあえずは安心できました。
避難所は高さがあるため、よほどのことが無い限り水没することはありませんのでそれは安心でしたが、周りがすべて水没しているため陸の孤島のようになってしまい物資が届きません。
それでも救助された人や自力でお城にたどり着く人たちが続々増えて、私たちが来たときは600人程度だったのが、最終的には1000人を超えていました。
14時ごろに私たちが避難所であるお城に入りましたが、食料も布団もありませんでした。
朝ごはんは食べて家を出ましたが、当然お昼を食べられる状況ではありませんでしたしずっと水も食事もない時間が続きました。
夜の23時ごろにようやくクラッカーが少量と水が配布されましたが、その後の配給は無く朝を迎えます。
状況はわかっているし、大人は我慢すればいいけれど小さい子をもつ親御さんはたいへんだなと思いました。
特におむつを付けた赤ちゃんもいましたので、おむつやミルクとか大丈夫なのかと心配でした。
クラッカーを配布した時におむつやミルクの配給もあったので、自分の事ではないですが少しホッとしました。
そんな中で役場の職員の方はとても頑張ってくれました。
配給の時は物資が遅れていることや、届いても食料と言えるような量ではないこと、全員に行き渡らせる為にもっと欲しいという要望に応えられないことをすごく申し訳なさそうに話していました。
職員の方々のせいではないのに。
また、警察レスキューや消防の方、自衛隊などいろんな県から応援に来ていました。
救助の人に付き添われて水の中を歩いて避難してきたじいさんが、ボート出してくれりゃあいいんだよ!と文句を言っていましたが、助けてもらってよくそんな事が言えるなと悲しくなります。
それでもレスキューの方は嫌な顔せずに任務を果たしてくれます。
同じく付き添われて歩いてきたおばあさんは何度も何度もお礼を言っていました。
茨城県内はもちろん、千葉・埼玉・静岡・長野・群馬・・・等々いろんな地域からとても遠いところから、私たちのために来てくれている人たちがいます。
仕事と言えばそれまでですが、命がけの仕事だって多々あります。
物資が足りな中、子供だって我慢しています。
なぜ大人が我慢できないのか・・・
状況や救助に来てくれている人たちがいるということを理解しないのか・・・
近くにいたおばさんが、「避難所に来ても食べ物が無い!」
「あっちの避難所はいっぱいあるらしいのに!」
と言ってる人もいました。
気持ちはわかるけど、状況はわかろうよ。
当然分かっている人も大勢いるのは分かっていますが。
中々寝れずに1時間ごとに外に様子を見に行き・・・を繰り返して朝を迎え、11日の6時ごろになるとピーク時に比べ20cm以上水が引けていました。
これなら帰れるかもしれないと、一緒に避難してきた二人に声をかけ店に戻ることにしました。
やはり水位は下がっていて、膝くらいまでは水に浸かったものの避難時に比べればだいぶ楽に車まで戻ることが出来ました。
前の道を見ると、まだ冠水はしていましたが水位は下がっていて車も走っていました。
橋さえ渡れば帰れるあてはありましたので、二人に挨拶して車を出し橋へ向かうと、橋の手前の交差点はすでに水が引いていました。
渡ってしまえば後は障害もなく帰宅。
車を駐車場に入れて、玄関を開けると妻が待っていました。
この時初めて心の底からホッとしました。
その後、実家が床下浸水で踏みとどまったことや、水海道地区が大変なことになりかけているのを知ることになります。
自分の住む土地が被災地になるなんて夢にも思いませんでしたし、さらに避難所で夜を明かすことになろうとは・・・・
経験しなくてすめばそれに越したことはありませんが、それでもある意味貴重な経験をしました。
まだまだ復旧には程遠く、行方不明の方も多く、まだまだ先は長そうです。
特に決壊した地区に住んでいた方は家も流され、中には家族の安否も知れない方もいるかと思います。
友人の家も床上浸水したところもありました。
実家のほうはまだ停電と断水が続いています。
そんな中、久しぶりの友人から電話が来ました。
以前の仕事仲間から電話が来ました。
しばらく会っていないパソコン通信の頃の仲間から電話が来ました。
ホント泣きそうになりました。
バイク仲間もいろんな励ましのメッセージをくれました。
なんだか色んな思いをした1日でした。
実家の前の通りです。
鏡のあたりにどこからか流れてきた、道路から剥がれたと思われるたたみ1畳くらいのアスファルトのかたまりがあります。
対岸の土手(崎房水門付近)から見た三坂地区の決壊場所です。
今回思ったのは・・・・
水がまわるのは思ったよりも全然早いこと。
道路を浸水する水が来る前に下水道から水が上がって来て浸水すること。
避難指示が出たらとにかく避難の準備をすること。
もうやばいと思ったら、もう準備する余裕はないと考え身一つでもいいからとにかく避難すること。
救助要請は手を振るだけじゃヘリから(空から)見えないので、濃い色のタオルやライトを振って要請すること。
自分が考える何倍もやばい状況はあっという間に訪れること。
スマホの携帯バッテリーはいつも充電して宝の持ち腐れにならないようにすること。
等々・・・・まだまだあります。
このほか11日の昼間に街中をバイクで走ってきましたが、床上浸水した家や店舗が浸水した店の家族や従業員の方が家具を運び出したり、土砂を掃除したりしていました。
断水しているので掃除もままならないと床上浸水した友人が言っていました。
写真撮ろうとも思いましたが、家に被害のない私が撮るのは単なる野次馬根性に思えてきて撮ることが出来ませんでした。
今日12日水海道地区の街中も仕事途中に走ってきました。
石下も街中よりもひどく、まだ通行止めの道もあります。
ほとんどが床上浸水しているように見えました。
軒並みの事ですが、早く元の日常に戻ってほしいと強く思いました。
並行していろんなことがありすぎて、文章のつながりがおかしい所や書ききれていないことも思うこともたくさんあるんですが、きりが無いのでこの辺にしておきます。
思い出した中で伝えたいことがあったら、また書こうと思います。
キミたちは普通の日常だったね。^^